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【特集コラム】

日本漫画はなぜ廃れないのか

 〜コマ割表現、漫画雑誌、キャラの魅力で獲得した「安い、早い、リアル」

漫画、マンガ 2

まんが

日本アニメの人気が高い必然性

 人間が動いて表現するのが映画なら、絵が動いて表現するのはアニメーションである。つまり、漫画はもとよりアニメを想定して描かれる形式なのであり、アニメとの相性がよいのも当然である。手塚治虫氏がキャリアの後半でアニメ制作に没頭したのもまた自然ななりゆきだが、残念ながら当時の市場はアニメ制作のコストを回収できるほど成熟していなかったため、手塚氏の夢は挫折した(いまでもこの問題は残っていて、制作スタッフの低賃金などはそのひとつだ)。

 アニメを想定した漫画が大量に生産され、その中から選りすぐった作品がアニメ化されるので、アニメがヒットするのは当然といえば当然であり、西欧のマンガブームがアニメから発生したのもまた納得できる(その後アニメは、漫画を経ないアニメ作家の巨匠を生み出す)。

 要するに日本発のマンガという表現形式は、作家が伝えたい物語を、より現実味をもって(また、よりエンタメ性をもって)伝える手段として適していたということで、そのような漫画を見て育った世代は、自分の世界観や受け手を喜ばせるエンタメをこの形式なら伝えられると確信し、この業界に大挙押し寄せた。その裾野の広さが半世紀続く日本漫画の隆盛を支えている。ということはつまり、創始期のレジェンドが磨き上げたコマ割の手法が、日本漫画の多彩なタレントを育てたといっても過言ではないだろう。

 また、ここで重要なのは、漫画界に参入する人材には「自分が伝えたいことがある、相手を喜ばせたいという強い欲求がある」ということだ。音楽界にも言えることだが、世界に進出するJ-POPのタレントは、バンドやシンガーソングライターが主力である。つまり「個」の力が開花しているわけで、漫画界もそうした「個」の才能を上手に育て上げた制作側と読者の貢献を忘れてはならない。

漫画雑誌の影響力

 日本の漫画の興隆に無視できない要素に漫画雑誌の存在がある。

 漫画雑誌の影響力のひとつには、掲載される漫画の多様性が挙げられる。一冊の漫画雑誌では基本的に同じジャンルの漫画は扱わないので、その中には、ギャグ漫画(それも多様な)、スポーツ漫画、時代劇、SF、恋愛物、歴史物など多種多様なジャンルがミックスされていた(初期には、戦闘機が活躍する戦争物もあり人気だった)。読者は掲載されている漫画にひととおり目を通すので、興味のないジャンルであっても、ストーリー展開やキャラの魅力があれば夢中になるから、多様性がますます広がる。著名なアメコミ作家が、自分は日本の釣り漫画のファンだと公言したことがあるが、釣り好きの若者がひたすら釣りにいそしむというだけの漫画は日本ならではといえる。ひと昔前、日本では体格の問題などもあり、バスケットボールはさほど人気のスポーツではなかったが、現在、オリンピックでメダルが狙えるほど盛んになったのも、漫画の影響が強いのではないだろうか。

 また漫画雑誌はコストのかからないエンタメであるから(モノクロだし、ボロい再生紙使ってるし、制作者のギャラは安いし)、読者層を絞って小さい市場をねらっても採算のメドがたつ。他国にはあまりみられない少女漫画が拡充したのもその成果のひとつだ(もっとも日本では、江戸時代から女性がさし絵入りの小説を愛読していたし、漫画雑誌以前にも小説を主とした雑誌が存在していたから、市場としては決して小さくなかった)。少女漫画が盛んになると女性作家が増え、女性作家が男性向けの雑誌に連載するクロスオーバーも珍しくなくなった(手塚治虫氏や石ノ森章太郎氏らは少女漫画を描いていたから、逆のクロスオーバーは以前からあった)。

 かつて漫画は、どこの国でも子ども向けの(悪く言えば子どもだましの)エンタメだという認識があったが、日本の少年少女は、成長しても漫画を読み続けた。そのおかげで日本には青年向け、成人向けの漫画雑誌が現れた(『成人漫画』というとエロ漫画とほぼ同意なので取り扱い注意である。なお、そちらのほうは以前からお盛んだった)。少年漫画は大人が子どものために描く少年漫画だが、大人が大人のために描く漫画市場が成長したのだ。大人が子どものために描くから漫画は、刺激さえ強ければ、ストーリー展開、人物描写や舞台設定のリアリティが多少荒くても許されるという「子どもだまし」の汚名を着せられる傾向がある。しかし、「大人だまし」をするには大人の観賞に堪えるクオリティが必要となり、「大人だまし」ができる実力者が少年少女漫画も描くので、必然的に少年少女漫画の質も向上する。アニメ界の巨匠・宮崎駿氏は現在でも「子どものためにアニメを作っている」と述べているが、それが大人をも感動させる作品となっているのは、日本のアニメ、漫画界が育んだ果実というべきだろう。

 クオリティが高くバラエティに富んだドラマを低価格で提供する。それが日本漫画の強みだといえるが、この状況は、江戸時代の浮世絵の世界的な評価にも通じるものがある。遡れば『源氏物語』の昔から、下層階級の文化が上層階級を巻き込んで発展するという日本文化の特徴がここにも見える。

キャラクターの魅力

 日本のアニメやマンガの登場人物は、キャラクター商品としても人気があり、それが売上に貢献し、ブランド力を高めるている。日本のキャラはまた、コスプレのモデルとしても大人気だ。

 日本のキャラの魅力にはいくつかの要素があるが、中でも「カワイイ」という評価基準の比重は高い。広告業界には、視聴者の関心を集めるBeauty(美人),Baby(赤ん坊)、Beast(動物)という3つのBがあるとされ「赤ん坊」と「動物」は「カワイイ」そのものであり、日本人感覚では「美人」にも「カワイイ」要素が多分に含まれる。過去のディズニーアニメにはその要素がふんだんにあった。その「カワイイ」要素をしっかり受け継いで、拡大したのが日本のマンガでありアニメだともいえる。大人の漫画が盛んになると漫画のキャラも多様化し、かならずしも「カワイイ」は重要な評価基準ではなくなる。手塚治虫氏はそのカワイイキャラのおかげで、ある時期「古くさい」とさえ言われたが、現代のヒット作品を見ても「カワイイ」がキャラの基本に確実に根付いていることがわかる。

 全世界でナンバーワンの動員を記録した『アバター ウェイ・オブ・ウォーター』は、日本では期待したほどの業績を残せなかった(第一作は大ヒットしたが)。その原因はいくつかあるが、ひとつにキャラクターの(日本人にとっての)魅力があるのではないだろうか。この作品は華麗で壮大な映像美、説得力のあるキャラ設定とドラマ等々、映画としての魅力に満ちており、日本人も賞賛していて、だからこそ1作目は大ヒットした。しかし、そのキャラクターが受け入れられたかどうかは疑わしい。早い話、多くの日本人はアバターを観に行っても、キャラクターグッズを購入しようとは思わない。

 しかし「カワイイ」などという評価基準は、いまどきの政治的正義(ポリコレ)の観点からすれば「観賞者に媚びている」として批判される姿勢であり、真の政治的正義を押し通したければ企業は利益を捨てる覚悟がなければならない(実際に最近のディズニーは多くの作品でそうした政治的正義に殉じている)。日本のマンガやアニメは、全般的に客に媚びる姿勢が顕著だと、政治的正義の観点から上から目線で非難されがちだが、それは観賞者を喜ばせることが政治的正義に優先しているからで、要するにお客様第一、そのうえで作者のアイデアや個性、主張を発揮していくのが日本漫画の進んできた道なのである。

まとめ──おもてなしの日本漫画

 日本漫画は、コマ割手法を磨き上げて、最も安価なコストで実写映画のもつリアルなドラマを紙上に再現した。つまり、漫画そのものが「紙上のアニメ」だったわけで、人気のある漫画をアニメ化した作品は高い確率でヒットし、海外でも注目された。日本アニメに夢中になった人々が原作のマンガ本を手に取り、夢中になる。日本の漫画雑誌は漫画のジャンルを押し広げ、読者層を拡大した。また、漫画のキャラは関連商品の売上にも貢献し、コスプレ文化を押し広げている。

 このような漫画の一過性に終わらない(現時点で終わっていない)ブームの根底には、作家の読者志向がある。つまり「お客様は神様です」という三波春夫精神であり、おもてなしの心である。日本の店舗などで見られる「おもてなし」を上っ面だけだと指摘する人もいる。ところが、お客ににこにこと笑顔で接する店員は、お客が笑顔を返してくれればそれだけで(結局商品を買わなくても)十分に満足する(もちろん全員が全員そうではないが)。これは日本の「芸人」に共通した心持ちかもしれない。「他者を喜ばせ、賞賛されたい」という欲求が最初にあり(最近この「賞賛されたい」という心持ちにも文句を言う人がいるが、その件については別項で触れたい)、その後に、お金、主張、政治的正義への対応などがついてくる。その精神が「上っ面だけ」とか「タテマエ」とは言いきれないところが、日本の「おもてなし」であり、これは「おじぎ」や「謙遜」に見られる、日本人の対人関係の構造的な姿勢から来ている(その件についても、別項で解説する)。

 作家の「おもてなし」精神が、それを十分に発揮できる場とツールに出会い、開花したのが日本の漫画だといえるだろう。(前ページに戻る☞こちら)

(VP KAGAMI)