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【特集コラム】

日本漫画はなぜ廃れないのか

 〜コマ割表現、漫画雑誌、キャラの魅力で獲得した「安い、早い、リアル」

漫画、マンガ 1

まんが

漫画(マンガ)が世界進出した経緯

 漫画(マンガ)とは、絵とセリフ(部分的に説明文)で構成された表現形式のうち、コマ割の手法を用い、主に紙媒体で頒布される(デジタル媒体でも紙媒体をほぼそのまま写したものを日本漫画と呼ぶことにする)物語性のある作品をいう。類似の表現形態である「コミック」に対して、上記のスタイルで日本人の作家が描く作品、あるいは日本のマンガのスタイルで描かれた海外の作品を「漫画」「マンガ」と呼んでいる。

 現在マンガは世界的に浸透しており、日本の主要輸出産業になりかねない勢いである(もうなっているのか?)。アメリカの書店ではマンガがアメコミを駆逐し、世界のトップアーティストやトップアスリートがマンガファンであることを公言している。

 マンガの世界進出には、TVアニメの浸透が重要な役割を担っている。1960年代後半から西欧に進出したTVアニメは、おそらく使用料が安かったために子ども向けの穴埋め番組として利用された。ところが、この番組が想定外に大ヒットし、フランスでは永井豪原作のアニメ番組が視聴率100%というわけのわからない数値をたたき出した。そのため西欧では、暴力的であるというような教育上の問題点に難癖をつけて(実際は、低俗だと軽蔑している日本文化が子どもを侵食するのを恐れて)、放映を禁止したほどである。しかし、当時日本のアニメに夢中になった世代が親になってその警戒心がゆるむと(国家の首脳クラスがマンガファンであることを公言している)、子世代は当然のようにマンガになだれこむ(視聴率100%は伊達じゃない)。アニメでマンガの面白さを知った人々は紙媒体の原作にも関心を懐き、現在の興隆がある。

 日本のマンガが二世代、三世代と引き継がれているのは、初期のレジェンド作家の尽力もさることながら、新しい作者とヒット作品を次々と生み出し、一過性の流行に終わらないSDGsなムーブを作っている点が大きい。これは、その世界に参入する人材(タレント)が多い点もさることながら、その人々の才能を開花させる手段としてマンガという形式が非常に優れているものであった点も見逃せない。

コマ割手法の重要性

 日本の漫画の原形は、遡れば絵巻物であり、江戸時代から続くさし絵入り読物・小説、さらには紙芝居、絵本である。この種、絵と説明文からなるメディアは、物語やドラマ(劇)を表現するために生み出されたものだが、もともと画像を必要としない物語はともかく、ドラマを表現するには不十分といわざるをえない。なぜならドラマは、実際の人間が会話を交わしながら時間が経過するというリアルな日常表現の上に、非日常的な物語(つくり話)をかぶせて、観る者を幻惑し没入させるという手段を使うからだ。このリアリティや没入感を紙の上で再現するために生まれたのが、吹き出しとコマ割からなるコミックの形式である。日本漫画の創世記を担った作家たちもこの手法を採用した。そして、その形式をよりドラマの表現に近づけたのが、手塚治虫氏を筆頭とするレジェンド作家である。

 当時、ドラマを最もリアルに表現していたのは映画である。「ドラマ」は「演劇」とも訳されるように、基本は舞台演劇だが、舞台芸術はその「舞台」という制約のために、映画ほどの再現性は追求できない。例えば、役者は最後部の観客にもはっきり知らせるために、大げさな演技をし、耳元のささやきでも大きな声を出す。また、セットもほんものそっくりには作れないので、大ざっぱにこしらえて、後は観客の想像力で埋め合わせてもらう。その点映画は、よりリアルな表現が可能で、しかも多数の会場で上映できるので、制作に多大な費用がかかっても、十分に利益を上げることができる(ヒットすれば、の話だが)。

 手塚治虫氏らがねらったのは、映画のようなドラマ表現を、最も安上がりな紙の上で再現するというこころみである。そのために活用したのが、アメコミから取り入れたコマ割手法で、映画フィルムのコマを紙面に並列させることで、映画の臨場感を紙上に再現しようとした。映画はコマを連続して映写して日常と同じ時空間を再現するが、コマを紙面に並べて同様の効果を得ようとしたのが漫画である。つまり、時間の経過をコマの並列で表現するわけで、もちろん映画の再現性には及ぶべくもないが(とにかく制作費が安いもので…)、紙の上に表現されるこれまでのどんなメディアより格段に優れた再現性を獲得した。

 演劇や映画にあって、絵画、イラストにないものは「時間」である。さし絵入りの小説は、空間表現をさし絵が、時間表現を小説が担うが、やはりさし絵そのものには時間性がない。これを、不十分ではあるが解決したのが、漫画のコマ割手法だといえる。

 コマ割手法は、会話のやりとりはもちろんのこと、出演者の表情やアクションの移り変わりの繊細な描写が可能である。さらに、スローモーション、ロングショットからクローズアップへの転換、カメラアングルの移動、モンタージュ技法、フラッシュバック等々、さまざまな映画技法も不十分ながら(いちいち言わなくてもいいことだが)再現できる。

 蛇足だが漫画は、コマから人物や擬音語が飛び出すという、3Dやサラウンド表現もはるか昔から獲得している。

縦読みスクロールコミック(ウェブトゥーン)の現在地

 韓国が開発して盛大にPRしているスマホ向けの縦読みスクロールコミック(以下、縦スク)またはウェブトゥーンは、基本はスマホの1画面に1コマ(多くて2、3コマ)、フルカラーで制作される。近年は、日本のマンガをこまぎれにして置きかえたような、画面を3、4コマに区切ったモノクロ作品も登場しているが、主流は変わらない。

 縦スクは、スマホに適した表現手段として、一部で将来の爆発的拡大を期待されているが、いまのところその気配は見られない。その理由は、圧倒的なコンテンツ(優良なコンテンツ)不足にある。優良なコンテンツがなかなか生まれない原因には、歴史の浅さ、制作者の少なさなどさまざまあるが、表現形式もそのひとつに挙げられるだろう。縦スクは、提供するメディアとしては最新だが、表現手法はさし絵入り小説や絵本、紙芝居などと同様の古い形式である。

 先に、コマ割漫画が一つのページにコマを多数配置することで、時間の経過を繊細に表現できると先に述べたが、現在の縦スクの手法では、1コマごとのぶつ切れ感がはなはだしい。その原因は大きく二つある。まず一つは、コマの移動が縦スクでは読者の「人力」に任されているという点だ。つまり、時間の進行を制作者がコントロールできない。コマ割漫画では少なくとも見開きの2ページ分、制作者は自分の思い通りにドラマの時間をコントロールできる(上映時間中制作者が時間をコントロルーする映画ほどではないが)。リアルな物語は観賞者のペースでは進まないのである。

 縦スクのぶつ切れ感が強いのには、制作者側の問題もある。縦スクはフルカラーで制作されることもあり、白黒線描の漫画と比較して手間がかかるので、作家としてはなるべくコマ数を減らしたい。一方日本漫画は、色彩など余計な要素を切り捨てて効率を高め、人間心理やドラマを表すのに必要なコマ数と配置を獲得した。その昔野球漫画で、投手が一球投げるのに雑誌2、3回分のページ数を要したものがあったが、そんな贅沢なコマの使い方でも読者はドラマに没入していた。縦スクの作り方に手慣れてしまえば、リアルなドラマを表現できる巨匠が生まれにくいのも当然である。

 紙媒体が減少している昨今、縦スクも今後改良されていくのだろう。日本のコマ割漫画をバラして小画面に収めるような形式もそのひとつだ。このような改良なら手軽かもしれないが、現在の縦スクを映画表現に近づけるには、早い話、アニメにしてしまえばいいのだが、それには莫大なコストがかかる。全面的にアニメ化しないまでも、YouTubeなどで見られるように、音声を加える、自動でページが進行するなどの方法が考えられるが、どのような改良をするにせよ作る側のコスト増は避けられないだろう。そうなると作家はさらなる手抜きをせざるを得ず、リアルなドラマ表現はなおいっそう難しくなる。それなら、現在の紙の漫画をそのままコピーしてタブレットで読んだほうがよほど読みごたえがあり、漫画用のタブレットを安く提供するのが近道だ。長年巨匠たちが積み上げてきた日本漫画の「安い、早い、リアル」は一朝一夕で獲得するのは困難なのかもしれない。

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