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桐一葉

きりひとは

 桐一葉とは、アオギリの葉の一枚という意味だが、アオギリの葉が一枚落ちる(落葉する)ことを表している。アオギリは他の木に先駆けて落葉し、秋の到来を告げるので、秋の予兆という意味でこの語が用いられる。中国には「梧桐一葉落天下盡知秋(梧桐一叶落 天下尽知秋)」すなわち「アオギリ(中国語で梧桐)の一葉が落ちて天下の秋を知らせる」ということわざがあり、「桐一葉」はそのことわざを俳句(俳諧)の季語として使うために縮めたものと考えられる。しかし、中国のことわざは「天下の秋」と、なんだか「地球まるごと秋」みたいなものすごいことになっているように、単に季節の秋ではなく、興隆した国家の秋、つまり国家の衰亡期を象徴していて、「梧桐一葉落天下盡知秋」も、国家の衰亡の予兆を「アオギリ一枚の落葉」によって言い表しているのである。中国人は「一枚の落葉」を国家衰亡の兆し、または、その兆しをするどく見極める能力といった意味合いに使うのが好きで、古くは『淮南子』(前漢時代の思想書)「説山訓」に「一葉の落つるを見て、歳の暮れなんとするを知る」とあり、その後、北宋末の詩人・唐庚(とうこう)が『文禄』で「一葉落ちて天下の秋を知る(一叶落知天下秋)」とかっこよくまとめ、それが日本でも大事件の予兆といった意味合いでしばしば引用されている。『淮南子』も『文禄』も「一葉」がアオギリの葉であるとは言っていないが、それらの文書の成立以前に「梧桐一葉落天下盡知秋」ということわざがあって、「言わなくてもアオギリに決まってるでしょ」ということだったのか、それらの文献の後から「その一葉は何の葉っぱだったのか」と学者が議論を闘わせた末に、「梧桐一葉落天下盡知秋」ということわざができたのかは知らないが、いずれにせよ日本では松尾芭蕉の時代には「一葉」「桐の一葉」という季語がさかんに使われているので、「一葉」が「桐の一葉」であるのは常識だったようである。ただし、日本の俳句でこの語が使われる場合、中国の「天下の秋」という大それた意味は失われ、単に季節の移りかわりを表すだけになる。高浜虚子の「桐一葉日当たりながら落ちにけり」は、思想性をなくした「一葉」表現の傑作(他の人がその句に思想性を読み取るのは勝手です)だが、ここに日本人の非思想性、具体性好み、中国人の「一葉落ちて天下の秋を知る」に見える思想性、抽象性好みの対照を読み取ることができる。また、坪内逍遙が創作した新歌舞伎の演目に「桐一葉」があるが、これも本来の「天下の秋を知る」の意味はあまりなく(歌舞伎は滅亡に瀕した豊臣家を描いているが、そのころ豊臣家はとっくに「冬」だった)、主人公が片「桐」且元であることと、おそらく、時代に翻弄される葉っぱ一枚の軽い運命という意味合いがこめられたタイトルであろう。(KAGAMI & Co.)

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