混沌、渾沌

こんとん

 混沌(渾沌)とは、神話において、天地が創造される以前の、事物の判別がつかない状態。そこから、整理がつかず雑然とした状態、明確に区別されない入り交じった状態をさす語として、「優勝争いの行方は混沌としている」などと使用される。要するに、いろいろと考えてみたが(天地のはじめとか、そんなことを考えてみたわけさ)結論に達せず、「わけわかんねえよ」と投げ出した状態が「混沌」である。

 英語ではchaos(ケイオス)が混沌と似た意味で使われるが、原語のギリシャ語khaos(カオス)はからっぽの状態を意味し、なにかがあってごちゃごちゃに入り交じっている状態である混沌=chaosとは、考え方がちょっと違う。旧約聖書でも、天地のはじまりは「形なく、むなしい」とされているし、中国の道家などの思想をまとめた『淮南子(えなんじ)』によると、始めにあったのは「無」あるいは、始まりという概念さえない「無始」などとされているので、世界的に天地の始まりのカオスは「無」で一致をみているようである。つまり、いろいろ考えて「わけがわからない」と放置した状態というより、「やーめた」と考えることを諦めた状態だったと解釈できるのである。

 「混沌」は漢語ではもとは「渾沌」。「渾」は水が濁った状態、「沌」はいまでは「渾沌」にしか使われない字だが、もとは水が渦を巻いている状態を表しているらしい。『日本書紀』の冒頭には、「天地(あめつち)未だ剖(わか)れ」ていないとき、(中略)そこは「渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)のごとし」と記載されている。日本語読みの「まろかれ」は、多くのものが丸く寄り集まっている状態、「とりのこ」は鶏のたまごの中身をいうらしい。『日本書紀』は前出の『淮南子』に影響を受けているとされるが、当の『淮南子』で「渾沌」という文字が出てくるのは、天地ができてしばらく後のことで、人と自然が一体化して分断や抗争のない幸せな時代を表現するのに用いられている。したがって、丸く集合しているという「まろかれ」は適切な読み方だといえるが、問題は「渾沌」が日本の神話では天地の始まりにいきなり登場すること。『淮南子』では天地の始まりについて、「無」だとか「無始」とか「無無始」などという考えをうだうだと述べているが、日本神話はそんな退屈な理論をすっとばして、天地は丸く一体化した状態であったことから始めているのである。つまり、日本人は見えるもの、触れるものから思考をスタートしようとしているわけで、ここに、中国人(他の世界の人間もそうだ)の抽象的思考好き、日本人の現実的思考好きの対比を見ることができる。

(KAGAMI & Co.)

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